『授業』

ウジェーヌ・イヨネスコというフランスの劇作家の作品で、下北沢に見にいった。
東京乾電池の公演として、柄本明さんが教授で、親しい友人の太田順子が生徒だということで、これは貴重な機会だから見逃せないので足を運んだ。そして面白かったのだ。なんといっても柄本さんが目を離せないような居方をするのだった。やはり凄い。そして太田さんは最高の相手を得たことで、途中から固さもとれて、やはりこういう魅力をもっているんだよこの人はという存在となって、久しぶりに彼女が魅力を出しているのを見れて幸せだった。やはり役者は演出だな。そして芝居は戯曲だな。活きていた。見てよかった。
「理解」ということについての不可能性を考えるうえでも、目からの鱗の戯曲であった。自分はいま、とても「理解」への狂気のようなもんが沸き立っているので、それって戦争みたいなもんだと絶望しながらも、驚くほど醒めたままで気分よく下北沢を去る。
検査した。
心臓はよくないようだが仕方ない。そんなことより怖い事がたくさんある。
理解のための戦いを考えていて、俺は一人でやっていく覚悟を固めているのでした。次はない。そうやって作品へ向かって進んでいくことにしか魅力を感じない。もっと、ただのこれを、肯定肯定肯定で進むわけです。
僕は社会派な表現者だと思っている。社会問題に向き合っているように見せる技術はあっても、それを乗り越えていくことを示せない奴らと一緒になるくらいなら、ひとりでもくだらないことをやっていく。個人を世界に回収させるより、圧倒的に不条理なままのそれを見せたい。問題を表面化させる為の意味ありげな言葉は見てて辛い。そんなのおふざけでしかないと思える。
続けることを選ぶための時間を過ごしている。言い訳は用意しない。終わる時は終わる。
生きているかぎりはもっと貪欲でいたい。
全然足りない。