20170904

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我が家の文鳥は鳴き、空を飛ぶ、それを見ている。肩に乗って、手に飛び移るといつものように巣に運ばれて、木の棒の上で小さく飛んだり跳ねたり動き続けている。やがて暗くなると、いつの間にか動きがなくなり、そのまま眠っているように見える。眠っているんだと思う。

捕まえるイメージは、現実は、いつだって相反するものをどちらも持っている。同時に。1は2であり3でもある。正反対だと思えるものを見事に持っていて、矛盾と共にある。このことはあまりにも現実離れしているようなことだから、たとえば言葉で表現しようとするとまったく逆のことや矛盾していることを言ってるバカになるが、そうなのだから仕方ない。行き違いが起こる。そのせいか言葉で言い表すこと、共有することに、興味はこれっぽっちもない。ただ、そのことに向き合っている状態が、熱量が上がっていることが静かに巻き起こるのを、一人で感じている。そのことは誰かにひけらかす事をするような価値のあるものでもなく、ただただ、価値なんて幻想からは遠く離れて、そこにあるものへのまなざしとしか言いようのないものと共にあって、審美性からは遠く離れた、驚くほどの幼稚な肯定がある。その時、なぜか一人じゃないような感覚を得たりすることがあって、ただただ、ここはそこになって、陶酔も狂騒もなく、静寂の中で燃えている。

先日、映画上映会を共にした菊沢さんのお誘いで、大阪から用事で来ていた林くんと谷中の店で長話をする。林くんはアニメーション映像作家で、まだ未完成だという新作を見せてもらったけど、とても良かった。店の居心地が良いのもあり、表現することについて真っ向から二人と話すことは栄養になった。直接向き合うことができる存在はありがたい。自分が良いと思う事をただ実行する志がある。

母親とメンバーの橋本和加子さんの誕生日は9月5日だが、その前日、今日は佐藤真さんの命日だ。忘れるわけがない。激しく影響を受けた恩師であり、佐藤さんに出会うことがなければ、自分みたいな人間は表現という道に進もうという気になることはなかったんじゃないかって思う。この世界をどのように見ているのか、ということは、その人のまなざしと共にあって、佐藤さんのように表現と向き合う人がいるなら、そのように向き合うことができるなら、僕にとって表現するということそのものに人生を置こうと思えた、そんな態度を目の前で見せてくれたからだ。忘れるわけがない。怒られたし怖い人だった。真剣に向き合ってくれたんだってことはあとで感じたこと。感謝しても感謝しきれない。佐藤さんとの日々を思い出しながら過ごしましたし、これからもそうだと思ってます。