20150517

映像の編集というのは時間がかかる。
『ヒネミの商人』の編集をやった。それから『3人、』を仕上げていたらあっという間に時は流れてしまいもうこんなところまできた、どんなところだって話ですが、もう5月も半ば。ここ最近はそんな感じであっという間。ただ時を過ごしていくのに慣れてしまうなんてバカなことになってないだろうなと、自問自答。慣れてしまうのは恐ろしい。
作る時だってスタイルで出来上がるというのは職人的で憧れもあるし素晴らしいことでもあるんだけど疑問も浮かんでくる。はたして、こんな風に出来てしまうってことが、自分にもたらすものに期待できるだろうか。体験や経験を生み出していくことの先に作品があったりすることは望んでいる。というか、価値みたいなものってどこからきてんだろう。自分で選ぶ前にあるのだとしたらなんだろうそれは。価値ってのには流れ、みたいなもんがある。正しさとか間違ってるとか大いなる勘違いであって欲しい。

ハイビジョンから4Kとか他人の技術に弄ばれる日々は続く。
綺麗な映像を褒めたたえたり、それが作品の評価だったりするのかもしかして、ってまるでその事(映像の画質が良い)が価値基準だったりして支配されるのはまっぴらご免というこの気持ち。汚いからこそ素晴らしいって、画質悪いから良いんだ、ってな言葉はない。捨てられた過去の遺物。綺麗は簡単で、汚いは難しいってなんだこれ。古い画質でも決して上手くなくても凄みというものはあったりして見据えるのは難しい。超ハードな思考の先にあるはずの感覚への距離。『神々のたそがれ』(タイトル『神様はつらい』の方が好き)に見たそれ、『ヴァンダの部屋』に見たそれ。凄まじい思考の末に横たわる作品の姿に、面白い/面白くないとか、上手い/下手とかに支配されず、見るということはどれほどの重労働で、しかも誰もそんな風に見ることを望んでいるのかどうか。見るという欲望はある。欲しいというより奪われる。そんなもんを見たい。探す。落ちているものの先に未来があるならそれは嬉しいことだとおもう。