20150227

行方知れずになった人のことを作品にする。
一瞬一瞬は消え去る。掴まえるのは不可能。だから作品でやる。
またいつもと違った自分のやり方で。

突発的な出会い。社会を知ってるような、まるで代表してるような顔してる顔だった。差別する人たちの悪意はくそったれ。綺麗ごとの両論併記も莫迦みたい。すり抜けて街を歩きます。花粉症で鼻ズルズルで。

ある日、海へいった。強風波浪注意報が出ている日で激しい海だった。感覚なんてやくたたず。心を持ってかれるような波が走っている。やっぱりそこにあるじゃないかって、荒れてる海見てたら昂揚があった。どこか遠くで日本人が死んだときに日本人だって感じることができるだけ。日本人である前に人間だし、やっぱり日本人なんだとおもう。
作品をつくるべし。

20150226

ここはアメリカ北西部にあるポートランドという街の駐車場。
確かこのあたりでエジプトのランチみたいなものを頬張った。
彼女のことは知らない。

20150222

アメリカで撮った写真がいっぱいあるのでそれを載せる。
色んな風景を見た旅だった。

ちょうど一年前、『ハロー、スーパーノヴァ』公開日だった。
色々と思い出すが時間は流れていく。あたらしい時間を始めなくては。

いま積極的に南米の作家の本を読んでいる。流れってたくさんのイメージを持ってる。多層的なものから直線的なもんを生み出す手だてを発見したとおもう。
あと、ここ最近は『ブレイキング・バッド』を全話見て、それから改めて第一話をみると本当によく出来たドラマだとおもう。最初に持った主人公へのイメージは自分の偏ったイメージでしかなかったと改められる。そして「わたしの名前は?」「あなたは誰?」「本当って何?」って呼びかけてくる認識のドラマ。傑作。

20150215

2月14日はこどもえんげき部だった。
西新井で、メンバーと子供たちと。
一組はクリエイティブで、常によくしたいと前進してる。驚くほどに。そのなかでも、一人の女の子の姿勢とまなざしに感銘を受ける。声が届いてくる。素晴らしかった。
みんな自分たちのやっていることを良くしようと頑張ってる。
みんなでチョコを食べてプレゼントをもらった。

筒井康隆『驚愕の曠野』を読む。
ワイズマン『メイン州ベルファスト』『DV』『ボクシングジム』『高校2』『視覚障害』を見た。

それから『ブレイキング・バッド』というドラマ。アルバカーキという街を舞台に嘘についての物語を紡いでいく。嘘は現実に影響を与えることができる。現実はいつもおっかない。

20150204

渋谷、シネマヴェーラへ。
『メイン州ベルファスト』の構成において決定的な、車が過ぎ去る音でリズムを作っていく方法は、大量の素材と撮る対象の曖昧さ(茫漠)によって発見される。これは、僕も卒業制作で発見したことがある。そこは通り過ぎるだけの場所である置き去りになった土地に響く通低音だ。

受付の方に3回券を勧められた。いくつか未見のものがある。ドキュメンタリー映画を見ると大学のときに戻される。佐藤真さんに影響を受けた。いまも残っている。というか、そのとき受け取ったもので作品に向かってる節がある。

青山ブックセンターで「おわり。」をようやく見れた。田附勝による鹿猟の写真。
放射性物質のものは食べられない。鹿を布に包む。
営みは断絶された。つまり、おわりだ。

20150202

殺されてしまった彼らのことを知らない。手垢のついた情報じゃ知ることなんて出来ない。インターネットは僕には向いてない。これまでのアメリカによるイラク戦争、泥沼となったテロとの戦いから何を学ぼう。この土地に閉じ込められたような気分だ。外に敵を作って外もおちおち歩けない。場所、というものへの執着なんて子供の頃からないけど、いま日本にいて東京に住んでいる僕は、いまから五年間の間に消えていくものを見逃さないようにしなきゃと思ってる。街はきっと変わってしまうとおもう。もっと街を歩くことにする。地方の景色も変わってる。どうでもいいことなんだろう。そんなことなんて。消えていくことも死んでいくこともどうでもいいことなんだろう。違う。そんな簡単じゃことじゃない。四年前のことだって今もずっと続いてる。家のテーブルに花を飾る。花なんて、どこにでも生えてるってそう思ってたら、いつの間にか季節の変わる匂いは消えていってるのを感じる。無視できない。近所のコンビニも、お肉屋も、定食屋も、不動産屋も、カフェも、知ってるけど知らない人たちがそこにいる。街がある。もっと見るだけ。見て感じることがあったらまた作品をつくる。作品で出会った人たちのことを思い出す。遠くに離れてしまったり、一人でいたり、誰かに恋をしていたり、家族をつくったり、子供が生まれたり、何があったとしてもその人たちが、どこにいても、いつでもまた笑って会えるような日々があったらと、そう思う。

もっともっと勉強します。

20150131

西新井で「こどもえんげき部」をやる。
作品づくり、衣装作りに入る。子供たちは少しずつでもちゃんとやろうという気概があって、気力もあって、見事だとおもう。ギャラクシティの山本さんと話していたんだけど、気付いたら3時間ぶっ通しでやっていた。集中力あったなあ、みんな。
発表で、表情を変える彼、彼女たちには心が動く。

いま、クリエイティブな部分を刺激するようなことが少ない。
だから色々と手を伸ばしてるけど、やはり先人に教わることが一番だ。

バストリオがやってることは、言葉にできないと言われることが多く、尚かつ、それを敢えてでも言葉にするほど暇な人もほとんどいないのだとおもう。言葉にすると違ってしまうし、これは作ってる僕にとっても、「何か」なんだとしかいいようがない。それが自分のやってることだからしょうがない。
自然を前に言葉を失うこととか、そのとき僕は感動する。でも、違うんじゃないかって、そう思ったりもしてる。いま、その分岐点、というか、触れた振り子が中間にいるみたいな気分。

20150129

自分のなかにあること、というより、目の前にあることに触れる。
それから始まることがある。
新作のことを考える時間が流れていて、それはまだどこにもないから、でもあるから、無限の可能性に満ちている。いつだってそう。その状態がいつだって良くて、可能性はどんと構えてる。木みたいだ。でも目の前にある木が、誰にも見えていないんだとしたら、ただただ、その木を、大きくなっていく木を見つめ続けて、触れていくことで削りだされた氷山の一角ともいえるそれを、ひたすら眺めたい。その木が枯れないように水をやるのは自分だ。出来れば綺麗で透き通った水をやりたい。それをまず、探したいし、きっとどこでもないどこかにある。人が想像力を軽蔑してしまわぬように、真っ黒なブラックホールみたいな場所にだって想いを馳せたいとおもう。
かたちはやってきた。でも、見る人にとって輪郭をとらえる為のなにかが必要でかたちは届かない気がしてる。もっとエッセンスを絞って凝縮する。シンプルにやりたい。たとえば、「街に住んでいる。その町の傍らには川が流れている。その川はどこかへと繋がっている」という問い。答えは、海、じゃなく、もっとたくさん繋がってるじゃないかという、これは想い。
それから反転。挑戦はそこにある。

そうだ! 菅原文太さんを見た。
『トラック野郎』は大好きだけど、『仁義なき戦い』を初めて見た。
素晴らしかった文太さん。

ぽつぽつと短編映画『春の風(仮)』の脚本を書いてる。
それから様々な編集をしていく日々である。

20150126

渋谷O-nestでの一枚。『Nowhere,yes』から二週間以上経ちました。
お久しぶりです。書こう。

やろうとしてることが少しずつ見えてきてるような日々。
ロメールを見直して涙したり、新作のイメージを書いては見直したり、細野晴臣さんの文に感銘を受けたり。音楽は部屋のなかでよく聴いて、ニュースは食い入るように見てる。いろいろ厭になったりするけどうんざりしてたくない。厭になるってことや絶望的な想いは大事だし、能動的な気分になってきた。もっと掴まえにいく。

「こどもえんげき部」での、子供たちとの時間は貴重です。
微細なことが織りなって新しい発見をしてる彼女たちに起こってることに、エネルギーに、感動もする。子供のとき感じてたもんは自分だけにあったもので、自分だけで理解しようとしてた。共有出来なかったし共有したくなかった。ひたすら様々なことが起こる。過去があって今があって未来があって、時間は相対的に絶対的に存在しつづける。一緒に時間を過ごして伝えれるものがあるのか共有できるのか考え続けているけど、何より、楽しんでる彼女たちは素晴らしいし、ひたすら見てあげたいとおもう。

俺はこれから自分が理解することに全力を尽くしたい。大事なものは自分で守れるように目を離したくない。自分のなかにいまだ溢れるよくわからないそれを、自分が理解することだけを求めて、やり続けることをしたい。