『グッドバイ』今野裕一郎監督インタビュー

 

聞き手、構成:新谷和輝
(2019.03.28)

 

――『グッドバイ』の成り立ちについて教えてください。

 

今野:もともと友人だった菊沢さんが出演・監督した『おーい、大石』という映画を観て、すごい感動したんです。そのあと、菊沢さんが主催した「世界に杭を打つ!」という上映会に作品を出して欲しいと誘われ、彼を主演にぜひ撮りたいと思ったのがはじまりでした。上映会まであまり時間がなかったので10日間くらいで撮影しました。

 

『グッドバイ』主演の菊沢将憲

 

――これまでの今野さんの映画を観ても、「この人を撮りたい」という思いがまずあるのかなと思いました。

 

今野:「この人にならカメラを向けられる」と思える人とではないとなかなか映画はつくれないです。僕の映画制作の原点はドキュメンタリー映画にあって、撮る側が優位に立って被写体を搾取してしまうかもしれない、そうしたカメラの加害性については常に敏感になっています。その人と映画を撮ることの責任を自分がどう引き受けるか、作品をつくるときはテーマや何を撮るかよりも、誰をどのように撮るかを考えています。

 

――その背景には大学時代に師事された佐藤真監督からの教えもあるのでしょうか?

 

今野:そうだと思います。僕の卒業制作の『水の大師の姉弟』というドキュメンタリー映画は編集に1年かかって、その間何度も佐藤さんに「違う」とつきかえされました。佐藤さんは直接言葉にはしませんでしたが、真似事としてなんとなく好きな映画に似せようとしている僕に対して、「ドキュメンタリーをやっていくなかで、社会と出会っていること」、「そこに巻き込まれていく自分を無視しているうちは何も発見できない」ということを伝えてくれていたんだと思います。今も作品をつくるときは、自分だけの閉じた世界に他の人を引き込むんじゃなくて、その作品をつくる過程においてそこでしか成立しえない人との関係を築くことを大切にしています。

 

ドキュメンタリー映画『水の大師の姉弟』場面写真

 

――「バストリオ」で演劇作品も発表しながら映画もつくっていて、映画と演劇の違いについては意識しますか?

 

今野:昔はよく考えていたのですが、今はあまり気にしていません。僕の作品は映画も演劇も「よくわからないけど面白い」とか言われることが多くて、それは既存のジャンルに当てはめづらいところがあるからだと思います。演劇でもドキュメンタリーの手法を取り入れていますし自由度を上げています。「映画っぽい」とか「演劇っぽい」って人はよく言いますけど、その言葉が指しているものってすごく曖昧ですよね。僕も正直映画や演劇をやってきてまだよくわからないことがたくさんあるし、わかったような物言いは好きじゃないです。その2つの表現の差について今は考え過ぎないようにしています。

 

監督が主宰するバストリオの演劇作品『STONE』(撮影:コムラマイ)

 

――『グッドバイ』での演出はどのように行いましたか?しっかりした脚本があったんでしょうか?

 

今野:事前に決まったものは用意せずに、撮影の前日や当日に俳優さんに渡すことが多かったですね。大まかなイメージは頭にありましたが、物語の流れは固定せず、その現場に合わせて変えていきました。演技に関しては、役者が背伸びしてないか、似合ってないことをしてないかは気になるので、それは彼らの声で判断していました。その人の良い声を録ることはけっこう意識してました。

 

――音は『グッドバイ』にとって大事な要素ですよね。劇中の音楽のほかにも、街や自然の環境音が世界を広げています。

 

今野:雑多なノイズを消したくないなと思ったんです。偶然マイクやカメラが拾ったもの、自分が狙ってなくても入り込んでくるものをなるべく残しておきたかったです。そうすればより開けた作品になるだろうと。

 

『グッドバイ』場面写真

 

――撮影は北千住で行われてますが、他の作品でもこの街が舞台になっています。どうして同じ街にこだわるんでしょうか?

 

今野:家から歩いて撮影場所に行けるというのと、この街に全然飽きないからです。北千住にはもう10年くらい住んでますけど、毎年毎年どんどん変わっていってる。建物がなくなったりできたり、人の入れ替わりがあったり、前の映画で撮影した河川敷の土手に生えていた草も埋め立て工事でなくなってしまった。今目の前にある風景や人は確かに存在するんだけど、それはそのうちなくなってしまうっていう感覚も同時に強くあって、それを記録したいと思いました。映画だとその記録が残って、あとになって見直すことができる。もういない人たちのことを考えながら、かつてのその人たちを観ることができます。

 

――作中ではぎっちゃんという人物がいなくなったことが語られます。ぎっちゃんのエピソードについては、今野さんの個人的な体験がもとになっているとお聞きしました。

 

今野:以前一緒に住んでいた親友が行方不明になってしまったことがありました。大学のころからずっと一緒に映画をやってきた仲間で、その彼がいなくなってしまったことをこの映画では考えていた。『グッドバイ』に出ている役者の半分くらいが彼のことを知っていて、撮影中はきっと彼のことを考えていたはずです。ただ、これは映画が完成したあとに映画を観てくれた友人に言われて改めて気づいたのですが、僕はこの映画で彼をほとんど描こうとしていない。いなくなったという事実だけがあって、彼の苦しみや暗い部分は描かなかった。あくまで不在です。なぜ撮らなかったのかを考えたら、彼が感じていた何かを僕は直接表現することができないのだと思いました。遠くの国でテロで亡くなっていく人たちのことも、誰かの苦しみを自分が簡単に描いてしまうことには抵抗があります。だけど映画では彼や遠くの人たちのことを考えるし、その不在そのものを映して、想像してもらうことになりました。

 

『グッドバイ』場面写真

 

――そうした不在のあり方に関係すると思うのですが、この映画に出てくる2つの家は重なるようでどこか別の場所のような、不思議な描き方をされていますよね。男と女が暮らしていた家とぎっちゃんがいた家は同じ場所で撮影しているんでしょうか?

 

今野:部分的には同じ家を使っているところもありますが、2つの家についてはできるだけ自由に解釈してもらえるようにしています。異なる時代の同じ家に彼らが住んでいるのかもしれませんし、もしかしたらあの家にいる人たちはみんなもう死んでいるのかもしれない。砂川さん演じる女は男の帰りをずっと待っているようにみえますが、実はもうそこにはいなくて彼女の思いだけがあるのかもしれない。なんだが『雨月物語』みたいですけど。この映画では「いるけど、いない」っていう矛盾を登場人物たちにはそのまま生きてほしいと思いました。

 

『グッドバイ』場面写真

 

――家が曖昧な場所である一方で、川は境目として存在しています。映画の冒頭でもその設定がはっきりと示されています。

 

今野:たしかに『グッドバイ』で川は境界線としてあるのですが、同時に、それを決めたのは誰なのかということも考えたいです。もともとそこにある川を境界線にしてしまったりするのは人間たちなのではないか、かつて水がきれいな時は自由に入って遊べる大きな水溜りみたいなものだった川が、いつのまにか自分たちの世界を分断するものとして扱われたりする。そうした当たり前のようにある境界線を見つめたいと思いました。男は川に飛び込んで、向こう岸に渡ったように見えるけど、それまで「向こう側」だと思ってたものが実は「こちら側」なのかもしれなくて。向こうとこちらという区別も絶対的なものじゃなくて、もっと曖昧で、いつでも入れ替わるような不安定なものじゃないかと思います。

 

『グッドバイ』場面写真

 

――作中のデモで叫ばれている海外で起きるテロをどう考えるかということにもつながってきます。デモのあとに、男が川を渡るために「想像力を使うんだ」とはっきり言っていることが大事だと思いました。

 

今野:「かわいそう」とか「遠いよね」と言うのは簡単だけど、そのときにこそ想像力を使うべきじゃないかと思います。ここでいう想像力っていうのは全然きれいごとじゃなくて、自分が誰かを傷つけているかもしれないっていう加害者としての意識のことです。「こちら側」にいると思って投げかける言葉が誰かを苦しめているかもしれない。この意識が今はすごく欠けていると感じていて、自分の作品でも考えてきたテーマです。これは可能性の話でもあって、川を境界線だと捉える想像力もあるし、また別の想像力もある。芸術だけではなくて、日常の生活のなかでもいかに使っていくかだと思います。

 

『グッドバイ』場面写真

 

――当事者性の問題もあります。

 

今野:以前、『わたしたちのことを知っているものはいない』という舞台を上演する前に沖縄の辺野古や高江に行ったとき、朝から路上で座り込みをしている女性たちに自分たちが乗っていた車が停められました。僕たちのことを警察かなんかだと思ったみたいなので、そうじゃなくて東京から来た人間だと伝えると「なんだ観光客かー」と言われたんです。その「観光客」という言葉が僕にはなんだかしっくりきましたし、自分たちがどのような存在なのかを再確認することが出来ました。たとえばドキュメンタリー映画を撮ってる時、いったん撮影をはじめると、現実に困っている人、お金がない貧しい人が被写体として目の前にいても助けることができないことがある。そこでお金をあげてしまうと僕たちとの関係が大きく変わってしまうからです。強い力をお金は持っています。それは『水の大師の姉弟』でも経験したことでした。貧しさというものを映画が救うことはありません。でも、当事者ではないかもしれないけど、外から見つめ続けた人だからできることもあります。当事者とそうじゃない人のあいだの曖昧な境界線上に立ちづけることによって、そこからしか見えないものがある。だから「想像力」という言葉からは逃げたくないです。

 

――『グッドバイ』を踏まえて、これからはどのような活動をしていきたいですか?

 

今野:映画と社会の関係について興味があります。自分の欲望を表現する手段として映画をつくって、それを公開するという行為を社会の中にどう位置づければよいのか、芸術と社会がどのようにつながっていくのかについて考えます。たとえば演劇とちがって、映画は海外に持っていくことや、観せたい人に観てもらうことがより簡単です。ドイツで自分の映画を上映したんですけど、そのときの観客の熱心な反応はとても嬉しかったですし、他者に会いたいです。そうやって映画の可能性をもっと探ってみたいです。


今野裕一郎
1981年生まれ。映画監督・演出家。横浜国立大学経済学部を中退後、京都造形芸術大学映像・舞台芸術学科卒業。ドキュメンタリー映画監督の佐藤真氏に師事。2014年に監督作『ハロー、スーパーノヴァ』が池袋シネマ・ロサで公開、2015年にドイツの映画祭「ニッポンコネクション」に選出。2010年には主宰をつとめるパフォーマンスユニット「バストリオ」を立ち上げる。同ユニットでは生演奏による音と役者の声、ものと身体、光と影、テキストや映像をフラットに扱い、ドキュメンタリー編集の技法を用いて観客の想像力を喚起する演劇作品は日本各地で発表してきた。