バストリオ+松本一哉

黒と白と幽霊たち 莇平版

越後妻有 大地の芸術祭 / あざみひら演劇祭2018参加作品

2018年8月15日|新潟・十日町市 莇平集落内の野外劇場


作・演出|今野裕一郎


出演
菊沢将憲
坂藤加菜
橋本和加子
今野裕一郎


演奏|松本一哉


美術|黒木麻衣
記録映像|新穂恭久
主催|明後日新聞社文化事業部

特設ページ


黒と白と幽霊たち 莇平版

世界は美しいですか/真昼間/ここにあるのは/黒いものと/白いもの/混じれば/いつものような/グラデーションの/光の/世界と/世界から/光射すそこに浮かぶのは雲/雲が隠しているのは/いつもと同じ/形のない/太陽からの光/いつもとは違うままならない形/雲と夏の空に浮かび上がるわたし/入道雲は/黙々と空に広がって/そのことにも気づかない/気づかないかもしれない/光と影が/すれ違っていく/それは遠くに見える/白い雲だった


『黒と白と幽霊たち 莇平版』に寄せられたコメント


2018年夏、越後妻有大地の芸術祭の一環で新潟県十日町市莇平(あざみひら)という地区集落の一角で「黒と白と幽霊たち」の上演が行われた。四方が深い山々に囲まれ、くねくねした道と斜面が張り巡り、木々の隙間から透明な真っ青な空が降り注いでくる。そんな山間の真っ只中、周囲360度をフルに活かした作品だった。上演時間の少し前から、舞台上に散りばめられたたくさんの装置や美術に目をやりながら、いつ始まるのか、いつ始まるのか、観客はワクワクしていた。上演が始まるとさらに惹き込まれた。演出家の今野さんが時にふらりとあらわれては、装置や音響を操作する姿。役者の橋本さんのお腹の底から放たれる声。また、役者とも黒子ともつかない佇まいで手際よく場面転換をおこなう美術の黒木さん。そして、何百メートルも離れたところから小太鼓を鳴らし、その音にのってくるかのようにやってくる演奏の松本一哉さん。はっきりと客席と舞台の境目がひかれることなく、観ているこちらも思わず前のめりになった。それは、彼らの表現が大上段に構えたものではなく、「それぞれの身体が触れているリアリティーの上に立つこと」が彼らの目指す表現姿勢だからではないだろうか。また、彼らが起こす行為、所作、声、出来事は、その一つひとつが必ずしも意味を含んでいるようには見えない。むしろ、何のことだったのかしばらく舞台上に放置される事だってある。しかし、それらが積み重なってきた時に、舞台上ではなく観客の身体の中で何かのイメージや記憶と結合し、また新たな風景を生み出すようになっていたように思えた。どこから観たっていい、こっちがどんな格好で観ていたっていい、風通しがよく、まるでどこかの路上にいるような状況が緩やかに、しかし鋭くつくられていた。


この作品は、上演する土地や状況によって変化する作品らしい。そんな生き物のような作品を生み出せるのは、彼らが命を懸けて一瞬一秒を生きているからだと思う。

ダンサー
大西健太郎


「あなたは神を信じますか?」そう問われているような演劇だった。たいていの人は「なんとなく、信じてる。」と答えるのだと思う。というより、信じなければ人は生きてはいけないものだ。でも、今野さんはきっと神様を「信じていない。」少なくとも「信じない」というスタンスを貫いて演劇をやっているのだろう。


人と人は「神を信じる」ことで成り立っている。言葉や感情や物語といった曖昧なものは、互いにそれを信じることでしか成立しない。自分の外部のあらゆるものは不確かで、言葉も感情も絶対に他人と共有することはできず、あらゆる事象の相関関係は決して理解することはできない。曖昧で不確かなものを信じることで人と人はかろうじて結びついている。それがこの世界だ。世界は「神を信じる」ことで、緩やかに成り立っているのだ。


そして演劇においてもそれは変わらない。言葉を信じ、感情を信じ、物語を信じて初めて演劇は成立する。むしろ、人はあらゆる事象に言葉を、感情を、物語を見ようとする。作家が意図しようとしまいと観客はそれらを見る。人が人である以上、信じることから逃れるのは難しい。


“黒と白と幽霊たち”は「信じる」ことから事象を切り離す試みだったと思う。デジタルの世界ではすべては0と1に分解される。画像も音声も文字もすべて0と1の羅列に変換され、曖昧なものは存在しない。“黒と白と幽霊たち”は言葉も感情も物語も、演者も観客も演出家もフラットな0と1に配置する試みだった。もちろん本当にそんなことはできない。できないが、試みること、そのように観客を導くことはおそらく可能だ。


例えば、音楽は分解すれば音の羅列だ。音の一つ一つは何の意味も物語も持たないある周波数の空気の振動に過ぎない。しかし連続した音は音楽として物語を持ち、聴く人の感情に訴えかけ、情景を共有しうる。しかし、音の羅列が音楽に聴こえるためには規則性が必要であり、規則性の無い音の連続は音楽にはならない。“黒と白と幽霊たち”は音が音楽になるギリギリ手前、事象が物語になる直前を巧妙に観客に提示する。不定形詩のような台詞と演技というより行為のような所作、メロディになりきらない音、観客の背後や谷向こうの斜面など周囲のすべてに配置されたそれらの事象は、観客が物語をすくい上げるそばからこぼれ落ちていく。


この「信じること」や「物語」から切り離された事象に触れたとき、人はそこに何を見るのだろう。それは曖昧なものから切り離された純粋な世界の美しさだったと僕は思う。身体の、言葉の、音の、光の、影の、空気の、土の、雨の、自分を取り囲むすべての事象が、自分自身の延長線にあり、それらすべてが美しいと認識すること。神様なんて信じなくたって、そんなこととは無関係に世界は美しい。そう今野さんは伝えたかったのだと思う。たとえ世界がすべて0と1に分解され、感情や物語が失われたとしても、そんなこととは無関係に世界は美しいのだ。


今野さんはきっと神様を信じていない。でも僕よりもよっぽどロマンチストなのだと思う。僕には今野さんほどドライに世界に触れることはできない。それでも夏の莇平で見たあの事象たち、役者の頭上の入道雲や蜻蛉や虫の音や雲間の光は、バストリオという事象を通してよりクリアーに、フラットに僕らを取り囲んでいると確かに感じたのだった。


僕は割と「神様を信じる。」演劇をやっていて、今野さんとは正反対のベクトルを持っているのだろうけれど、やはり作品を通して分かり合えることは確かにあるとそう感じた。何より、制作期間中に芝峠温泉で見かけた今野さんの真っ赤に日焼けした腕に、演劇人としての誠実さを見たように思う。日蔭の無い野外劇場で今野さんはじっくりと丁寧に世界と向き合っていたのだ。


今野さん、バストリオの皆さん、莇平に来てくれてありがとう。
また世界のどこかで、それぞれの視点で世界を見つめられますよう。

ふんどし演劇ユニット山山山(さんざん)
新見綜一郎