『生きている』

がっつりとした作品だったね。
自分の作品で言うと『世界のフラワーロード』に近いのかなあ。
撮り方とか方法論っていうより、気持ちが滲み出てるなぁって思ったよ。何を描きたいかっていうのがよく出てる作品でさ。
『なくしたこと』を得た来訪者との出会いで、改めて主人公の子が『生きる』ということを得られたというか、自己肯定に繋がるというかね。
再会できるか分からないけど、でもその瞬間は生きていて。
フラフープを持ったりとか、機材が見つかるシーンとか、ともすればドアーズの『まぼろしの世界』のジャケットみたいだったりするわけじゃない?
道化師たちがいっぱいいるような感じで。でも「その中にも真実はあるでしょ?」っていうような描写がすごい好きだな。
未来も現在も過去も混ぜこぜにした表現ができたのは映像の強みだし、そして今野さんの才能だなって思う。
一見ファンタジーって思われる世界を有用することで、自分のリアリズムを届けようとする姿勢がきびしくもあるんだけど、やさしいなと思う。
きびしいってことはやさしいんだなってことがホントに痛感させられたかな。
僕自身もそういう表現形態をとるし。
モノを創ってる人間として、今野さんたちのような人がいることはすごくホッとしますね。今後も楽しみにしています。
(デジタルマガジン『K.O.M』第2号より抜粋)

中村一義(音楽家)


「好きな人やものが多すぎて 見放されてしまいそうだ」って椎名林檎さんの曲でありましたよね。
今野さんの映画を見ていて、この歌を思い出したんです。
今野さんは多分好きなものがいっぱいあるんでしょうね。人、動物、街、とにかくいっぱい。その好きなものたちを映しながら、未来にもそのものたちが形を変えてでもどこかに息づいていますように、って願っているように思えました。
願う姿は、あくまで慎ましやかで。
映された淡い瞬間が寂しかったです。
でもだからこそ、そういう瞬間を自分も決して逃しちゃいけないと、強く思いました。そんな映画でした。

横浜聡子(映画監督)

『信じたり、祈ったり』

大人たちと子どもたち。
みなの目の前には、きっと「今」しかない。
今しかないからこそ、なにかに執着しながらも、忘れてゆく。
執着と忘却の間、大人と子供の間を、皆がふわふわと行ったり来たりしていて
他の人には見えないその”間”を見ている監督は、
おでこに第三の目を持っているのだろうと思いました。

横浜聡子(映画監督)


特に僕的には、小学生の姉妹が主人公の『信じたり、祈ったり』がとてもよかった。
横浜聡子のこっくんぱっちょや瀬田なつきのとどまるかなくなるかと並ぶ、コドモ日本映画の傑作だと思います。

佐々木敦(批評家)


見ている人の心に入ってくるような創意工夫がされてるし。
シンプルな表現なんだけど濃く集約された短編映画で、テンポもすごくいい。
いい意味でのイノセントの描き方を果敢にトライしてるんだなって。
河原とかにイノセントな情景を想うのは、僕もそういう少年だったから分かります。
お会いしたことは無いけど、僕と同志だなって感じるし、一緒に前に進んでるんだなって感覚はありますよね。オレもしっかりやろうって思うというか。
本当の意味でやさしくてほっこりするというか。
ストーリーは淡々さを持ちながらもダイナミックだよね。ちゃんと起伏があるのがすごいなと思います。
自分が描きたいことをやる上でのテンポ感をちゃんと知ってる人だなって感じました。
たとえ周りからどう見られようと、湧き上がる想いも大事にしていたいよね。
(デジタルマガジン『K.O.M』第3号より抜粋)

中村一義(音楽家)

映画上映会「ミクロコスモスⅠ」

(上映作品『生きている』『信じたり、祈ったり』『ゴーストアース』)

バストリオの映画を観に行ったのは、ちょっとした思いつきのようなものだった。
思いつきとはいっても、電車を乗り継いで行ったこじんまりとしたスペースで、数時間のあいだスクリーンに対峙したのだから、やはりなんらか期待はしていたのだと思う。
今野さんの名前は前から知っていたし、ちょうど観たばかりだったお芝居に橋本さんが出ていて、それで興味を惹かれたのだ。
しかしその期待と興味はもちろん、微温的なものだったと思う。
けれども、三本の映画を観終わった時には、来てよかったと思った。満足していた。
帰りがけに、挨拶してくれた今野さんに「よかったです」とか一言二言、述べたのじゃないかと思う(初対面だったのだが)。
そんなこんなで、いまこの文章を書いている。

『生きている』と『信じたり、祈ったり』は、同じ町が舞台になっていて、同じ人達が登場する。
たぶんこの続きもあるだろうし、その前もあったのだろうと思う(存在しているかはともかく)。
皆が何かを探している。見つからない何かを、ではなくて、ちゃんといつかは見つけるつもりで、心の底から見つけたいと願って、探している。
探しものには、持っていたのになくしてしまったもの、まだ見たことさえないもの、あるのかどうかさえわからないもの、など色々とある。
だが、探すことだけに必死になっているわけにはいかない。毎日の生活があり、すこしずつ形を変えながら続く日常がある。
それに、自分ではない誰かの探しものを手伝う、という仕事だって、ある。
互いが互いの探しものを手伝いあっている内に、時間が過ぎていく。
時にはそこに、思いがけない事件、みたいなものが生まれることもある。
ささやかな奇跡、いや、奇跡未満のささやかな出来事が、泡のように幾つか浮かんでくることだってある。
そうして皆が、信じたり、祈ったりしながら、生きている。
ここにあるのは、そんな映画たちだ。

僕はバストリオの映画の、なんというか、殊更に何かを物語ろうとはしていない感じ、決着をつけようとはけっしてしない感じ、柔らかく開いたままの窓のような感じに、穏やかな驚きと仄かな共感を感じている。
ここにあるのは、映画や演劇といった枠組みとは又少し違った意味での、人生の断片たちだ。
その人生は虚構のものではあるが、しかしほんとうのことでもある。

佐々木敦(批評家)

『原始人みたい』

「栖息する未来の演劇」

地球に還って来たバストリオの演劇は、芝居ファンならずとも必見である。
1年前に上演された『原始人みたい』は、主題であろう「わたくし」を支える摩擦や軋轢が充満し、観客と共に「生きようとするわたくし」が生成と消滅を繰り返した。
その10景は、「他者に映るわたくしと向き合う」という特異な作品空間に我々を参画させ、仕場居へと漂浪させたのだ。彼らは、軋む身体に科白を立て、軽やかに銀河を往来する生命体だった。
余人の追随を許さぬ創造力を見せる6月、新作日本公演を見逃す手はない。

池宮中夫(演出家/ダンスカンパニーノマド~s)


作品にシンパシーを感じつつ、情報量の多さについて想いを巡らせる。奔放さに好感。

明神慈(劇作家・演出家/ポかリン記憶舎)

『ガール・プロブレム あなたの葬式でわたしが言うべきこと

「何が起こってもおかしくない」時間が始まる。
起こっていることを一つ一つじっくり消化して行く時間はない、アクティングエリアの壁に『E=mc2』 と書かれた瞬間から。
点在する言葉、事象。その中で行われる、ある女への葬式。
去り逝く人に送られるたくさんの言葉。それもまた空間に広がって行く。
逝く人がいて、送る人がいる。
ただそれだけのこと。「特別な死」など存在しない。
たとえ私が「死者」を知っていても、いなくても。

山村麻由美(役者/chikin)


見終わったあと、いろんなワンシーンの意味を考えてみたくなりますが、是非深く考えずエンターテイメントとして見て頂きたいです。僕個人の感想としてはただ、ただ、衝撃の連続でした。シーンや台詞のリズム感、役者さんの表現力が素晴らしく、展開がめまぐるしかったので圧倒されました。まさにプログレの楽曲のようでした。

松藤光軌(北堀江club vijon店長)

『まるいじかんとわたし』

バストリオのみなさま まるいじかんとわたしをありがとう
おおきなのと ちいさなのが こちらにおしよせました
ものすごい速さなのに いつまでも近づかない おおきなのと
ゆっくりであるのに 一瞬で あたしの前からうしろまでいってしまう ちいさなの
たくさんおしよせましたが カッと消えました
来てよかったです またあそんでください すきです

ミズノミカ(ミュージシャン/みかとやす)


たった一夜、京都市左京区にあるギャラリーで行われたその公演をじかに目にした者の数は、出演者・スタッフを含めても五〇に満たないはずだ。地縁的な関係でもなければまず居合わせることのないようなその小さな営みが、それでいて普遍的な時間へとつながっていたことについて、べつだんわたしは驚かない。なぜならかれらはいつでも、かれら自身の、個の単独性=交換不可能性をこそ舞台に賭けるからだ。生身の身体どうしが対峙することで意識される個の交換不可能性──いまここで〈わたし〉であること──は、同時に、〈彼/彼女/あなたであったかもしれない者としてのわたし〉という個の根源的な交換可能性=普遍性を土台として、「にもかかわらず〈わたし〉である」ことの奇跡として、生じるものである。バストリオというユニットをつねにつらぬいているものこそ、その「普遍性 – 単独性」という軸にほかならない。

タイトルにある「まるいじかん」とはおそらく、時間的な普遍性のことを指すのだろう。時間というと、過去から未来へとのびる直線をつい思い浮かべがちだけれど、時計の文字盤はまるく、円環をなしている(じっさい、会場のドアを開けてまず目に入ったのも、向かいの壁に掛けられたそのまるい時計だった)。カレンダーなら毎年買い替える必要があるかもしれないが、円環をなす時計は、あるいは180度の回転をくり返す砂時計も、あたらしい一日がはじまったからといって使えなくなりはしない。

客席にたいして横に細長く伸びた演技空間の中央に、テーブルと、イスが二脚。その左右にのびる空間で、同時に別々のエチュードが展開する。ひとつのエチュードがおよそ三分ずつ。中央のテーブルに置かれた三分計の砂時計が演者の手によってひっくり返されるごとに場面が変わり、あらたなエチュードがはじまる。客席と演技空間とがごく近いので、左右に展開するエチュードを俯瞰的に見ることは基本的にできない。ばらばらに見えるエチュード──じっさいばらばらである──をつなぐ縦糸は、冒頭ちかくと終盤とに配置された、中央のテーブルで演じられる若い夫婦の日常の断片だ。とある書類に捺印しようとするが家にハンコがなく、24時間あいているという近所の百均ショップに買いに出掛けた夫が、買い物を済ませ、雨に濡れて帰ってくるまでのそのわずかな時間が、まったくべつの場所の、あらゆる時間とつながっていることを『まるいじかんとわたし』は示してみせる。また、相撲部屋での力士どうしの会話で、「ちゃんこ」という単語だけが「戦争」に置き換わっているというエチュードが比喩的に示すとおり、それらのさまざまな時間、さまざまな三分間は、ひとつの〈いま – ここ – わたし〉にたいして範列的に存在する、いくつもの、そうであったかもしれない時間として想像されている。

〈ここ〉にいるわたしは、同時に〈あそこ〉には存在できない。でも、〈そこ〉と〈ここ〉なら行き来ができるし、〈そこ〉から〈あそこ〉へはそう遠くないのかもしれない。──と、かれらの舞台を観ながらそう思うとき、わたしは、いわば神話の大地に触れたような感覚を得て、しばし、しあわせな気分に浸ることになる──なにしろ、「神話の輪舞の描く大地は円い」(レヴィ=ストロース)のだ。

あまたある夜のうちのひとつとして、ひっそりと熱く、その日、京都市左京区の一角に、そんな夜があったのだ。

相馬称(webデザイナー)

『絶対わからない』

大切な人の側にいることはとても難しい。
列車に乗れば会えるじゃない、と子どもたちは家を出て、電話をすれば届くじゃない、と恋人たちは離れている。会えない誰かを近づけるためにつくられたはずのものが、いつのまにか会いたい人との距離を広げている。
私達の世代にとって『絶対わからない』は人事ではない。
お芝居が何度も断絶されながら前へ前へと進んでいく、繋がっていく不思議。
誰かを想う気持ちがものを動かすという原始的な力が溢れる空間。
それらを目前にして、じわりじわりと誰かへの思いが高ぶる。
アナログテレビがうつらなくなり、大きな天災が起こった。
奇しくもそんな年に生まれた作品ではあるけれど、もっと昔からじっくりと蓄積された思い、
「もの」と「大切な人」と「ある場所で生きる」ということについて今野さんがずっと考えてきたことなのだと思います。

田崎恵美(映画監督)


その日はとても暑い日で、初めて行く街はなんだかワクワクさせてくれた。路地を曲がり普通の民家の様な場所。よくわからないけど田舎のおばあちゃんの家に来た気持ちになった。
席に着くと役者ととても近く、というかほぼ同じ空間にいるので緊張した。
2011年はいろんな事があった。本当にいろんな事があったのでそれを無視する事はとてもできない。それを呼吸してどう吐き出すか。僕は観ている間とても心地良かった。終わり。

やついいちろう(エレキコミック)