街は川で分断されている。
男はあちら側へ行った。女はこちら側で動かない。
男は全てを忘れてしまった。
彼女たちは抵抗を続ける、生活して、表現をして、商売をして、子供を作って、街で生きている。
どこへ向かおうと呼吸をやめない男はやがて変容する。
そしてある朝、男は魚になっていた。
「想像力は海を渡って泳いでいく」孤高の映像作家・今野裕一郎が平成最後に贈る最強パンク・ムービー『グッドバイ』!!
親友が行方不明になったことがきっかけで『グッドバイ』を作りました。制作当時はシリアでの空爆やテロ行為が世界で頻発していた年でした。ニュースでは目の前から消えた人たちが数字に変換されて生も死も曖昧なものになります。
視界に入らないものに対して想像することを止めなかったとき、やがてお互いを分けてしまう川に飛び込んで境界線は揺れます。その揺れのなかに身を置くことで世界の豊かさに触れることができるなら、大切な誰かに会えるなら、喜んでビショビショになりたいとおもいます。そして好きに見てもらえたら幸いです。
監督・今野裕一郎
街は川で分断されている。
男はあちら側へ行った。女はこちら側で動かない。
男は全てを忘れてしまった。
彼女たちは抵抗を続ける、生活して、表現をして、商売をして、子供を作って、街で生きている。
どこへ向かおうと呼吸をやめない男はやがて変容する。
そしてある朝、男は魚になっていた。
物語の吸引力にひっぱられ現実が止まりました。例えば行きたかったインドに連れて行かれたような感覚に。地上で、宇宙で、体内で起きていること、それらもリンクしたように見えてきて、突如地面から湧いてきていた彼にはやられました。不思議と彼は体内の小さな細胞やある時は植物にも見えたりして。人は模索しつくしたら新しい一歩を踏み出すしかないんだと背中を思いっきり押された気分です。
片岡礼子(女優)
ぎっちゃんが誰でどの人なのか見ていてもよくわからない、なんの話かもよくわからない、それがぼくは気が楽だ、この映画に出ている若い人たちも小さな子どもも猫も文鳥もいつか何十年後明日かもしれないみんな死ぬ、死んでいなくなる、この映画も撮られたことを忘れる、川だけが全部消えて忘れられても流れている、そのことも気を楽にする、水の音はそこに何をかぶせても聞こえてくる
山下澄人(小説家)
中学で教わった数学はぜんぜん忘れてしまった。先生は話の合う人で、楽しかった。
先生、今、この目に映る世界は壁のようです。
しばしば柔らかな日差しに撫でつけられるがしかし、何かの焼ける匂いだけが徐々に近づいてくる。
この頃の、この感じの正体を知るには、あの時教わった、xを用いた式が必要だ。式を知ろうと、誰もが小さい画面に首を垂れる。
この映画の中の人たちはそのかわりに、叫び、踊り、泳ぎ、走り、抱きしめる。
壁の向こうに誰かが居ると信じている。
おれも信じて、歌う。
折坂悠太(歌手)
今野さんの映画に映画的文法を見出すのは困難だ。
時間と空間の捉え方が特殊すぎるからだろう。
世界におけるすべてのものが、世界に存在する権利を持っていることを今野さんは見逃さない。
それらは絶え間なく互いに反発したり溶解したりを繰り返す。
「分断」の裂け目からあふれるものを今野さんはいつも掬い上げようとしている。
横浜聡子(映画監督)
「世界」に対して、どんな態度で臨むのか?
どうやって向き合うのか?
何でもいいわけではない。そんな時代は終わった。
ここにひとつの答えがある。
力強く、しなやかで、勇気に満ちた答えだ。
佐々木敦(批評家)
●抽象的なセリフを棒読みする市民が登場し特にストーリーは無い様子であった
●全編にゴオオと市街の雑音自動車の走行音と時々ビヨーンという効果音が聞こえた
●漫画を映画化してはどうか〈私のな〉
横山裕一(漫画家・美術家)
始まってすぐに、なんだこの映画は…。
途中で何回も、なんだこの映画は…。
終わってさらに、なんだこの映画は…。
つまり終始、「なんだこの映画は…」に襲われるわけだが、その意味合いが次々と変わっていく。そしてやがて、完全に気づくのである。「なんだったんだあの映画は!?」と見事に掴まれていることに。
ノゾエ征爾(脚本家・演出家・俳優・はえぎわ主宰)
今野監督の映画は透明感があって素敵な空気感が流れるのと同時に人の核に触れる。主演の菊沢将憲も透明感を保ちながらもある意味鋭く、それはどこかで感じてきた風景とかさなる。きっと人の時間というのは様々な色をもっていて一瞬で膨らんだり縮んだりするが、それはどこか片方の目で観ながら身体で押し返してくる記憶ではないかと映画を観たあと確信した。
矢内原美邦(振付家・演出家)
中学生ぐらいの時に、「あの人死んだらしい」と言われて死にたいと思ったことがある。
生きている間は「生きているらしい」と言われないなあと考えたりした。
それから時を経て、人生とはなにかにたどり着いた気がする。
心の中を映し出すのは難しいけれど、画面の中の彼らの背景が見える気がした。
そして意味はどこにもなくて、どこにもあることを再確認した。
手を目一杯上に伸ばしたくなる作品だった。
山崎ゆかり(空気公団)
この川のどっち側が「向こう側」なんだろうか。
こっちも向こうも、見える景色は多少違うけれど、同じように陽が沈む。
だから『グッドバイ』がやっているのは、絶対行けない「向こう側」に想像力で渡っていくことじゃなくて、むしろなにもないところに想像力の川を流すことだ。2を1に統合するのを目指すのではなくて、1を2に分けることからはじめること。
なので、ほんとは「また会おう!」って叫びたいのに、この映画のタイトルは「グッドバイ」ってつぶやいてるんだろう。
結城秀勇(映画批評家)
俺はプロの俳優であり表現者だから映画館に行かない。ライブハウスに行くのも辞めた。風邪やインフルエンザなどのウイルスをウツされたらコンディションをクズす身体。ただ無性に映画館に身体が引っ張られる時がドキドキある。それがこんな映画だろう。物語など無くて、ただ静かな疾走感は直接身体にクル。映画全体から今野のカウントする声や同期する身体が見えて観えるんだ。
山縣太一(オフィスマウンテン主宰)
なじみのある景色や文化や生活する人々と、少し空中に浮いてるような言葉や表情や行動が、平気で隣りあって並べられていて、均されていない土の道をボコンボコン上下しながら運ばれていくような感じがした。そのうち上下だけじゃなくて左右も、さらに斜め方向まで入ってきた。整地された世界に慣れていた自分の、無自覚に付けてたコンタクトレンズを外された心地。
西尾佳織(劇作家・演出家)
まるでどこか他の国の原作をバストリオが上演しているかのような、しかも映画での体験だった。小さな要素たち、俳優の演技や、画面内移動、映画内での遊びやルール、それらが同じように編集されパッチワークで北千住の衣服になるような気がしたのは気のせいかもしれない。
Aokid(ダンサー)
身体がぞわぞわする映画でした。映画観るぞ!と思ったら、急に演劇を観せられて、居心地悪いなーと思ったら、次はドキュメンタリーを観ている気にさせられたり。うわー、どうしよう、と思ってあんまり考えずに観たら、だんだん身体に馴染んできて、徐々にノッてきて、わかるわかる、って感覚があって、遠いところに足を踏み入れて、流れる音楽はもちろん最高で、それはとても心地のよい体験でした。
額田大志(作曲家・演出家)
この映画、物語が脈絡なく唐突に、まるで駄洒落並みに連接…というか跳ぶ跳ぶ。でもそれが不自然を超えてむしろ天然であるがごとく錯覚してしまう程度には妙に生々しいものだから、見ている自分が透明人間、あるいは幽霊にでもなって徘徊しているような感覚になる。生きている心地が危うい、というか。
黒澤伸(金沢21世紀美術館副館長)
小さな水流が集まって大きな川になるように登場人物が描かれる。
それぞれの生活や立場、そして戦争と平和。
この不思議な作品は、あなたの日常にも通ずるかもしれません。
横川寛人(映画監督)
菊沢将憲は応援します。久しぶり住田雅清と会いたいなあと想いました。
柴田剛(映画監督)
深夜、オルタナティブなロックンロールを聴いてるみたい。
言葉がコンテンポラリーしていて、ディープ世界にトリップしていく感じがじわじわと。
そのくせ油断してると素手で殴りにくる、なにこれ。意味不明だし!
山田佳奈(映画監督・舞台演出家)
一見、脈略のないシーンや台詞やダンスの置き方が舞台作品みたいな。出てくる人達のつながりも謎解きのような。
何処にでもいそうでそう居ない菊沢君は、ここでも低温度の目つきと高温度の身体をしてる。そして多分、自分の中で本当に起こった事しか演らない人だ。
康本雅子(ダンサー/振付家)
生きていると、わからないことがたくさん起きる。人生についての説明はないし、伏線や起承転結もあるようで、ないような。グッドバイも同じ。きっと何かが理由となって何かが起こっているんだろうけど、わたしには全部はわからなくて、でもそれは普段の生活と一緒だから、怖がる必要なんてない。
コムラマイ(写真家)
「映画の懐はここまで深いのか。
今野裕一郎は、誰かと共に作品を作ることで映画を自由にする。
カメラの前では踊って見せよとばかりに、それぞれの良さを持った身体が連帯していくとき、川で分断された街がひとつの劇場になる。ここからは見えないけれど、劇場の外からは見えるはずの風景について想いを馳せること。それは紛れもなく映画だった。」
三浦翔(映画監督・批評家)
生と死の境目が不確かな世界観で、この不条理な世の中で生きていく上での不安が切なくかつコミカルに描写されている。生者の淡々とした日常と、イメージの連鎖や飛躍で展開される彷徨う死者の旅が交互に織り成されて、そしてやがて絡み合う。
クリス・グレゴリー(演劇研究者・翻訳者)
今野裕一郎監督は、これまでの作品でも「生と死」「寓話と日常」「ケとハレ」を飛び越えるマジックを見せてくれた。 そして、その先を描いている『グッドバイ』では、彼岸の誰かに向かって自らの存在を叫び、手を振るということが、同時に此岸の人々に対しては、その背中で物語る人間讃歌にもなり得ることを教えてくれる。あちら側もこちら側も、本当はすべてこちら側なのだという、逃れようのないタネ明かしに膝を打った。
汐田海平(プロデューサー)
この映画を見ていると、手の届かないと思っていた遠い人々や記憶が、ぼんやりと側にあるような、でもやはり遠いような矛盾した感覚になる。世界の距離感がぐねぐねと変容していく。でも、そこには誰かが誰かをおもうまっすぐな気持ちがピンと張り詰めていて、それを手がかりに少しずつ想像力を伸ばしていける。そうしてやがて、スクリーンの先へ手が届くかもしれない。この映画から溢れてくるポジティブな自由さが、とても好きです。
新谷和輝(映画研究者・字幕翻訳家)
はじめて見たときびっくりした。映画だけを撮り続けている人では踏み込まない場所があった。それでいて誰かにとっての決定的な映画にもなり得ると思った。その可能性を感じたので僕は今野監督に「映画館で上映しませんか?」と声を掛けました。
小原治(ポレポレ東中野スタッフ)
記憶を失った男。蘇って川辺で必死に生きようとする。レジスタンスの男と本当の友人になる。川の向こうに大切な人がいる。
俳優・映画監督。高校時代より音楽を始め、博多のライブハウス『照和』でレギュラー出演。1995年『空間再生事業 劇団GIGA』に入団し、2000年より主宰。役者・劇作家・演出家として活動、韓国での公演も重ねる。2003年に主演映画『815』がバンクーバー国際映画祭にて審査員特別賞を受賞。現在はフリーの俳優として野田秀樹・河瀬直美・西田シャトナー・小野寺修二・ノゾエ征爾・江本純子・長谷川寧の作品に出演。コンテンポラリーダンスの世界でも黒田育世・矢内原美邦・康本雅子の作品に出演し独自の活動を展開。2016年にアヴィニョン演劇祭で初演されたアンジェリカ・リデル演出の舞台に出演し、活動の場を世界に広げる。また、監督した映画『おーい、大石』が、PFFアワード2016に入選し荻上直子監督より絶賛され映画監督としても注目を集めた。上映会やアートイベントの企画も手がけるインディペンデント精神の塊。
町に住む女。猫と暮らしている。デッサンモデルの仕事をして生計を立てている。デモの活動を続けている。
キュレーターの勉強をしていた大学在学中に、パフォーマンスを製作・上演する劇団「時々自動」のメンバーとなる。2002年の舞台『Lightology』以降「時々自動」の国内外での公演、ライブに多数出演し、クラリネット、サックス、ウクレレの演奏だけでなく、うたをうたったり、作曲、ストリップもする。「時々自動」以外での主な出演作に、美術パフォーマンス『La charme』(01/笠原恵美子)、『コーネリアス・カーデュー ~大学と論文』(09/足立智美)がある。バストリオでは2012年の舞台作品『Very Story, Very Hungry』に出演以降、立て続けに出演。また、音楽ユニット『すナマき』での活動や、写真家としての一面も。美術モデルを生業とし、静止するのが得意。ヨガインストラクターでもある。
町に住む女。文鳥と暮らしている。一緒に住んでいたぎっちゃんがある日居なくなる。
大阪府出身。京都造形芸術大学、映像コース卒業。在学中はドキュメンタリー映画監督の佐藤真ゼミでドキュメンタリー映画を専攻する。卒業後は俳優として活動をはじめ2010年のバストリオの立ち上げ以降全作品に出演する。バストリオ以外の主な舞台出演作品に『家の内臓』(10/前田司郎)、『トータル・リビング1986-2011』(11/宮沢章夫)、『東京ノート』(16/矢内原美邦)、『ウラGBB』(15/金山寿甲)、『聖地巡礼』(18/小田稔尚)などがある。
町で暮らしてダンス作品を作っている。河原でダンスの練習をしているとき川の向こう側からの声を聞く。
1993年東京うまれ。身体を用いた作品の発表や音楽家の演奏に交ざる踊り子、映像作品への出演、横須賀 飯島商店の催し「となりあう身」を主催するなど幅広く活躍。2016年の舞台『うみ鳴り』では出演だけでなく鈴木健太と共に演出も手がけ、2018年に桑原史香と共に振り付け・演出した『こんなに知らない貝と皿』がある。また、バストリオでは2016年の舞台作品『YOUNG YOUNG MACHINES』以降『TONTO』、『ストーン』、『黒と白と幽霊たち 莇平版』と立て続けに出演する。映画の出演作には『暁の石』(14/清原惟・飛田みちる)、『ひとつのバガテル』(15/清原惟)などがある。
町でリンゴを売って生計を立てている。踊る女と出会って川の向こうを見ようとする。
1990年生まれ。俳優。主な出演作に映画では『プレイタイム/praytime』(15/平波亘)、『Please Please Please』(16/堀内博志)、舞台では明日のアーや小田尚稔の作品に出演。バストリオでは2016年の舞台作品『YOUNG YOUNG MACHINES』に出演してる。
町に住む女。お酒が好き。はしもとさんと同じ町に住んでいて久しぶりに会う。ぎっちゃんのことを知っている。
東京都生まれ。大学在学中は油画を学ぶ。3歳からコマーシャルやスチールなどで活動。2012〜2013年の間、舞台作品に出演する。バストリオでは『Very Story,Very Hungry』(12)、『グッドバイ』(13)に出演。その他の出演作品にはQ『虫』がある。
レジスタントとして活動している。打楽器を用いた演奏やドラムの演奏をする。野外での演奏が得意。
東京を拠点に活動している石川県金沢出身の音楽家、サウンドアーティスト、作曲家、打楽器奏者、ドラマー。主に楽器ではなく、波紋音を中心とした音の鳴る造形物や非楽器を使用。音階や旋律ではなく音の響きそのものや、音の流れに着目し、自然の中での演奏・録音からドキュメンタルな作品作りを行うなど、独自の音楽活動を展開。自身の演奏と環境音とを繋げていき、空間全体を聴く事で表現する即興音楽は、打楽器奏者の枠を超えより自由に空間の成り立ちを提示できる数少ないアーティストとして様々な分野から高い評価を受けている。
作品に、手というものがあるのか知らないが
別に手でも足でも指でも、赤ちゃんみたいに舌でもいいんだけど
彼らの作品は、いつも、世界に触ってる、て感触がある
世界を見てる、のとはちょっと違う
目が見えない、という人に向かい合った時にも似てて
眼の前にいるその人は
ぜんぜん違うやり方で世界を感じてるはずなのに
それでもその人が感じてる世界と
自分が感じてる世界は
どうやら、同じ世界なのだ
つまり世界は、決して、この脳の中にあるわけではないぞ
飴屋法水