20160619

yym1

「ヤングヤングマシーン」WS4日目、ここまで出来たこと/起きたことを、考えている。
それぞれの、些細なことも、特別なことも、同じようにあったらいいと思う。
明るい未来を描く心意気がある。過去の大事なことと同じくらい、今のどうでもいいことだって光ってる。
今回参加してくれているみんなの発表は良いものが多いと感じていて、面白いものもつまらないものも。とくに小川さんと原さんの発表は素晴らしかった。すごく刺激を受けた。限られた時間でやれることに徹底的に向き合いたい。完成図よりも引いたことのない線を引くためにずっと集中したい。もう二度と作らないものを作ってる。どういうものになろうと全て出し切りたい。どうなるのか未だわからなくても、見えてくるヤングヤングマシーン。よろしくお願いします。

今夜は渋谷で遊園地再生事業団のリーディングを見た後、バストリオの会議を終電まで。
縁でまわってる。決めたらやるだけだ。

20160617

20160617

WSの日々が始まりました。13日間でやります。
淀んだって御構い無しで誰とやってても誰とやってなくてもどうなろうと場のこと無視せずに一人で立ち上げていきましょう。
そん時、目の前には人がいて、もしかしたら共有できるかもしれないし、もうすでにしてるかもしれない、無理かもしれない。一つじゃなくいくつもあって、掴みきれないから掴みにいって、常に運動体で、止まっても流れてて矛盾したままで必要な一つだけ見つめるために、継続する場をつくってみます。参加者と、ヤングヤングマシーンで。日本で。
明るい気持ちでよろしくお願いします。

一緒に暮らしてる文鳥は換羽期が終わり、鳴き声も変わって仲良くやってます。

20160612

1606132

お知らせです。
7月9日と10日、西麻布にあるKREI SALONにて新作をやります。
バストリオ『YOUNG YOUNG MACHINES』です。
サイトで予約が始まっております。よろしくお願いいたします。
ワークショップで新しく出会った人たちと少し新しいやり方でやります。いつもより無刀の精神で。
13日間で出来るものを。

20160531

1606012

1606013

京都にやってきた。
立誠シネマの方に「特集上映 佐藤真の不在を見つめて」のトークに呼んでいただいた。光栄なことだ。
というか、誰かの何かにトークで呼ばれるのなんて初めてである。立誠シネマの木村さん、ありがとうございます。
里山社の清田麻衣子さんと演出家の村川拓也くんと話をした。佐藤真さんの上映会で何かを話すなんて不思議な心地で、たくさん思い出があるせいか何から話していいのか困ってうまく話せなかった。でも、京都の地にやってきて、トーク会場の窓からはいつも眺めていた山が見えて、感慨深く、佐藤さんのことを思い出しながら話すということは幸せだった。
上映で観た『おてんとうさまがほしい』はものすごくよかったし、『花子』はやっぱり好きな映画だった。
そして元立誠小学校はいい場所だった。ここで演劇やりたい。

奈良にも行った。
自作の『3人、』で被写体となった佐藤夫妻のおうちに泊めてもらい、夜までたくさんのことを楽しく話したり、息子のふもとくんとも遊び、行きたかった畑にも連れて行ってもらった。すーっと靄が薄れていくような時間だった。
ここ最近は東京に住んでいることで感覚が殺されるのを感じていて、視界が開けた自然の中にいて時間を過ごしたりすることで、山々や木々のことを漠然とした画としてしか捕らえれなくなってしまった自分の視覚がゆっくりと戻っていくのがわかった。木はよく見えるようになった。こんなに目が悪くなっているのかとパンをかじって、育てた野菜を丁寧に採っていく友人たちのことを見てた。

関西にいると落ち着いて穏やかな気分だ。
街でのなんでもないちょっとしたコミュニケーションも心地いい。

20160511

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写真を唐突に。
2014年6月29日、そのときアメリカのセドナにいました。
この時期は、いろんな縁でアメリカを横断することになり、ビートニクの旅に想いを馳せるように、ニューヨーク〜ロサンゼルス〜ポートランドと電車に乗ったり車を走らせ移動しました。これはほんとに移動といえるもので(車の運転だけでも北海道の最北端から沖縄まで行ってから北海道の北端まで戻ってさらに東京へ行くくらいの走行距離)、あの時みたことはいまも自分のなかに残っています。セドナという地名は二年前にやった『ALice,where are you going?』での台詞にも出てくることになりました。
「チャペル オブ ザ ホーリー クロス」という小高い岩山(赤い岩!)の上にあるローマカトリック教会の礼拝堂から見える景色です。

たまにあったことを急にふと思い出すことがある。どこにいても。
想像力って絶対なんてないってことを考える知性をもつためにも使った方がいいって心の底から思います。
死なないってフィクションを想い描いてしまったりする人間のことを見つめたりもしながら。
で、生活の延長にあるものから目はそらさずに。

文鳥のほわの毛は抜けていきます。痒そうにしています。
換羽時期がきたみたいです。弱ってしまうから気をつけないと。

20160509

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ゴールデンウィーク最後の日、横須賀中央駅へ。
うたとダンスと人形劇を、元々タバコ屋だったという古民家の二階でみた。
そのまえに大勝利山を歩き、猿島を遠くに眺め、米軍基地の近くにあるハニービーという店でタコスを食べた。
たくさんの人とすれ違った。

生活や意識と繋がっている大事なことを口に出して言う(つまり抵抗する)のにビートが必要だってことについて考える。
いかに省略されたもんのなかで雁字搦めにならずにいれるか。
これがひたすら支配的で、自己責任なんて言葉は軽々しく使われて、クソみたいな空気を吸い込んで正面を向いている。
たくさんの人とすれ違って、また出会ったりするのだ。

今年おばあちゃんが亡くなったときに、棺のなかの顔をみた時に感謝の気持ちが込み上げてきたのは、
いつか自分も死ぬんだってことを教えてくれた気がしたから。
それは友人の出産に立ち会わせてもらったとき、泣きながら産まれた男の子をみたときに感じた思いにすこし似てる。
大声出してから沈黙するまでのあいだ、声をあげていようと、そうおもっている。

20160503

1605031
0605033
0605032

ひたすら精進の日々です。
五日間かけて浴びつづけ学んだものを紙に書き付けます。
状況はどうだって洗濯機の音聞きながら陽を浴びる布団の埃舞い上がり考える次の用意です。

外の光浴びる。
ひっくり返るように受け入れるものがあってそこには敬意がある。

20160427

20160427

いつだって「なけなし」のものと向き合う作業から生み出している。
現実から離れないことで、でもひたすらそれらは離れたがっていて違うフリをしたりする。あるものをなしにしない、出来るだけ嘘をつかずにやるということ。でも嘘をつかないために向き合わないという選択をすることは、嘘をつくより厄介なもので、満ちすぎてるがゆえの欲望というものはエラーを起こしやすくてどうしようもない。

見渡すと、見栄やプライドが染み付いていて見事にからっぽだ。
いまはじっくりと溜め込んでいく。

ギャラクシティという施設でバストリオはこどもえんげき部をやってるんだけど、そこで働いている人たちに誘っていただき晴れた日にバーベキューに参加する。楽しい時間を過ごす。ふと、近くの中学生のブラスバンド部の子供たちがファンファーレを鳴らすと、まるで嘘みたいなものが目の前に現れるけど、これは現実なんだから、きっとこんな風に嘘みたいなもんでも現実がこのようにあればと、そのようなものに積極的に関わるべきだと、小さな笑い声が起こせればと、そう思う。

ライアン・マッギンレーはいつだって好きな表現のど真ん中にいるから最高に笑える。

20160421

umiriku9

バストリオワークショップ『二回転』が終わりました。
参加者の人たちは能動的でいてくれて、バストリオの舞台を客としてみてから参加してくれる人が最近は多いので、場の雰囲気は立ち上がりやすくてありがたいことです。今回も皆さんが出来るだけそれぞれでいてくれて、とても面白かったです。ありがとうございました。
次は、5月の『三回転』です。
参加者募集中です。10人くらいでやれたらいいです。

一緒に作品をつくる人に会えたらと、このような場を設けることを継続的にやっていきます。
断ち切る必要はないのでこのように流れていければと。この先、集まった人たちと一つの作品を発表するようなことが出来たらいいと考えています。参加者であること、そこにいることに意識があり大げさじゃなくいることを徹底する。それ以外のことは必要ないということです。演劇をつくる際には役者とスタッフどちらが重要ということはまったくないですしあるべきじゃないです。もちろんこれはどのようなことをしていてもそうで、役者が役者でいることに満たされているだけの現場などつくりたくないです。

『ニュークリアウォーター』と『SELF AND OTHERS』の二作による発見。
それはコトバにすると大したないものではないけど、凄まじい実感を持って現れている。
で、ここで一度拡げていかなきゃダメだなと感じている。
やんねえことをやれってことだ。

ある日、ユーロスペースにて『コロッサル・ユース』をみる。
それからペドロ・コスタ監督と青山真治監督のトークを聴く。
ある感覚に引き戻されたのは小津とかジョン・フォードとかそういった言葉の感触によるものだ。

20160415

20160415

熊本で地震があったのを店に設置してあったテレビ画面で知った日。
とても心配だ。これから続くであろう余震や、二次災害、さらなる被害がないように祈っている。
心を配ることと、生活が一緒にあって、切り離されている。

友人の稲継さんにボクシングに誘われて観戦した。
勝った人よりも負けた人をどうしても見てしまうことについて考えながら帰路に。
泣き崩れるボクサーと泣くのを我慢している友人や奥さんが廊下に立っているのを見た。
哀れみの気持ちなど微塵もない。勝負は潔くて、ただただ出来事として存在している。
居心地の良い場所だとおもう。

そういや、数日前になるけど、以前バストリオに出演してくれていた友人の家で娘さんと長い時間遊んだのだった。友人である彼女はとてもいい役者だった。そしていま子育てと家庭を守ることをしていて、それは役者をやっていたときとはもちろん違うことをしてるんだけど、べつに違いはなくて、何事に向かうときでも彼女の姿勢には敬意しかないのでした。

飴屋法水さんと佐々木敦さんのトークを聴きに五反田にも行った。
感じることはあったけど言うことはない。そういえば車の免許をとりたくなかった理由って、他の人の運転がちっとも信用できないからだったのを思い出した。それを周りに言ったら、大げさだなあとか、大丈夫だって笑われたのを思い出した。そしていまは運転は好きだけど不安は消えていない。

5月は新潟と京都に行くことになった。どちらも大学時代の恩師である佐藤真さんのイベントに出席するためで、これまで10年近く共有できなかったものを急に共有する場が現れたのは、やはり里山社の清田さんが出してくれた本のおかげだとおもう。

きょうは次に撮る予定の映画と、バストリオの新作となるであろう『わたしたちのことを知っているものはいない(仮)』について考えまくって色々と書きつけていたらあっというまに一日が終わっていた。考える時に爪を噛む癖が直らない。
余震は続いている。