20170909

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一人の作家の作品を見て、
ちょっとどうかってくらい感動しまして、ずっと残ってるのですが、それは泣けるとかいうことではなくて、思考の先に進んでいることに触れることができたからです。淡々とか、あの頃に戻ったとか、そんな雑なことあるわけがないです、日々が燃えていました。近作からの更新があって、簡単に手放すことがないために摩擦が起こる日常の延長にある熱、その敬意の中にいました。

ある人が、こういうことをしたということがあって、それに触れる喜びがあることは何よりです。

新作に向けてオーディションをしました。急だというのに集まってくれた人たちがいてありがたかったです。集中して見ることによって目の疲れが凄いですが、全く共有のない人たちに会うことで、批評的に見ることが意識されるということがあって、自分としては表現をする上で「何がやりたくないのか」ってことを強く知れるいい機会だと思います。

今月から家の近くで水道工事が始まって、騒音と振動が凄いので、文鳥はこの状況をどう感じているのかってことを探りますが、いつも通りに見えるので、なんとも理解し合うのは難しいことです。

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我が家の文鳥は鳴き、空を飛ぶ、それを見ている。肩に乗って、手に飛び移るといつものように巣に運ばれて、木の棒の上で小さく飛んだり跳ねたり動き続けている。やがて暗くなると、いつの間にか動きがなくなり、そのまま眠っているように見える。眠っているんだと思う。

捕まえるイメージは、現実は、いつだって相反するものをどちらも持っている。同時に。1は2であり3でもある。正反対だと思えるものを見事に持っていて、矛盾と共にある。このことはあまりにも現実離れしているようなことだから、たとえば言葉で表現しようとするとまったく逆のことや矛盾していることを言ってるバカになるが、そうなのだから仕方ない。行き違いが起こる。そのせいか言葉で言い表すこと、共有することに、興味はこれっぽっちもない。ただ、そのことに向き合っている状態が、熱量が上がっていることが静かに巻き起こるのを、一人で感じている。そのことは誰かにひけらかす事をするような価値のあるものでもなく、ただただ、価値なんて幻想からは遠く離れて、そこにあるものへのまなざしとしか言いようのないものと共にあって、審美性からは遠く離れた、驚くほどの幼稚な肯定がある。その時、なぜか一人じゃないような感覚を得たりすることがあって、ただただ、ここはそこになって、陶酔も狂騒もなく、静寂の中で燃えている。

先日、映画上映会を共にした菊沢さんのお誘いで、大阪から用事で来ていた林くんと谷中の店で長話をする。林くんはアニメーション映像作家で、まだ未完成だという新作を見せてもらったけど、とても良かった。店の居心地が良いのもあり、表現することについて真っ向から二人と話すことは栄養になった。直接向き合うことができる存在はありがたい。自分が良いと思う事をただ実行する志がある。

母親とメンバーの橋本和加子さんの誕生日は9月5日だが、その前日、今日は佐藤真さんの命日だ。忘れるわけがない。激しく影響を受けた恩師であり、佐藤さんに出会うことがなければ、自分みたいな人間は表現という道に進もうという気になることはなかったんじゃないかって思う。この世界をどのように見ているのか、ということは、その人のまなざしと共にあって、佐藤さんのように表現と向き合う人がいるなら、そのように向き合うことができるなら、僕にとって表現するということそのものに人生を置こうと思えた、そんな態度を目の前で見せてくれたからだ。忘れるわけがない。怒られたし怖い人だった。真剣に向き合ってくれたんだってことはあとで感じたこと。感謝しても感謝しきれない。佐藤さんとの日々を思い出しながら過ごしましたし、これからもそうだと思ってます。

20170831

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いま仙台にいる。書いているのは実家のリビング、仙台駅から車で30分くらい離れたところに建つ一軒家の中だ。
庭の手入れを手伝ったり、山形に行ったりと、ゆっくり休んでいる。

今月の前半は、8月15日の東京公演まで『黒と白と幽霊たち』をあちこちでやっていた。
様々な状況で上演を重ねた役者や演奏者がタフになっていく上演を喜びながらも、更新することの難しさと抗う日々だった。引っかき傷のようなノイズは気づかぬうちに馴染んで消えていくので、自ら思ってもみないところでみっともない音を出して抗ってみたり、作品に対する思考を詰めることや共有がままならない部分があった橋本のパートを浮き上がらせる、8月6日、9日、15日が日本に漂わせている気配を、存在するものでなく、ここに存在しないものの存在感として浮き立たせていくために、気配を運ぶことに苦心し、消耗する本番が多かった。「初演メンバー」と「橋本、今野」が相反していく基軸を見つけようとやってみて、可能性というものは上演の時に発生するものだけでなく、前準備の段階で発見していくことが重要なんだな、という再確認ができた上演だった。共有していくためには、捉われていく思考を奪い去るために必要なことがある。
またいつかやるかはわからないけど、これまで「黒と白と幽霊たち」は全15回、8都市、10会場で上演した。
どこまでも現実と向き合っていく作業だけが繋がっている。そこに演劇がある。

それからあっという間に時間が流れて、8月が終わろうとしている。
9月からはオーディションをやって、11月に新作演劇を上演する予定だ。
北千住BUoYとのご縁はまた続く、何をやるかはわからないけれどきっとやることをやるんだと思う。

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8月です。
足立区北千住で暮らして長いですが、つい最近BUOYという面白い空間ができてわが町で公演ができるようになりました。ありがたいことです。まだ工事が続いている打ちっ放しの空間ですが、いずれ工事で綺麗になってしまう場所です。ここで演劇というあっけなく消えてしまうものを立ち上げるのは面白いことです。8月15日、終戦記念日にツアーファイナル、東京の北千住でやります。消えてしまうもの消えてしまったものに想いを馳せるそういう夏です。

最近はプロレスから学ぶことが本当に多くて、日本全国G1も盛り上がって戦いサマーですが、バストリオは黒と白と幽霊たちツアーです。静岡、長野、金沢、大阪とぐるっと周ります。
この映像は今年の1月に西麻布KREIでやったものです。和久井幸一くんが撮ってくれました。
ぜひご覧ください。

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20170731

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資料を整理していたら、今年の二月に公演した『TONTO』の写真が出てきました
二月か、一気に作ったので記憶も薄くなっていて、写真見てると色々思い出して面白いです。急遽の早稲田どらま館、その時の縁で出会ったあの空間とTONTOは仲良かったです。早稲田の卒業生や関係者でもない自分が使えるというとてもありがたい機会でした、どこもかしこも仲良しや身内で固まっていくばかりでは風も通らんのでうまいこと開いたままでいてほしい箱です。

部屋は暑いです。文鳥は水を替えると即水浴びで羽をバタつかせ水を飛ばし始める暑さです。
ふと道端に目をやると蝉が死んでいます。野良猫もバテてます。すっかり夏です。

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23日は、横須賀にある飯島商店で松本一哉さんのリリースツアーに、監督した映画『OVER,UNDER,AROUND &THROUGH』の上映と、Senju-min(橋本和加子+稲継美保)と角銅真実さんの『カシマシ』というパフォーマンス作品の演出などで参加しました。菊沢(将憲)さんの映画も上映されたり、黒木麻衣の展示もあり、そして松本さんと坂藤加菜のライブパフォーマンスに照明で参加したりと充実した1日となりました。いろいろと面白かったのですが、前から知り合いの飯島商店にいる人たちと何かをやったのは初めてだったので、タカラマハヤくんや鈴木健太くんと準備したり作業したりというのがとても刺激になりましたし、何より楽しかったです。みなさん、ありがとうございました。

バストリオに参加してくれている坂藤さんが自分のイベントを飯島商店で開いていて、彼女が大事に横須賀までイベントにお客さんを呼んでいることに共感して、二度足を運んでいたのですが、今度は横須賀で何日かゆっくり過ごしたいなあと思ってます。滞在制作も面白そうです。
橋本と稲継と角銅さんとの作業は面白くて、もっとこれはコツコツやっていけばいいんじゃないかと。この企画はロードムービー的に一日車で旅すれば、また新しい短編ができるパターンなので、次もやれたらと思います。小さな旅をただ実直に作品にできたら面白いのだという発見がありました。

みんなそれぞれで面白いしつまらないので、多様なものがそのままで豊かにあったらいいなあと思います。
永遠のものなんてないので俺は好きなものを見に行きますし会いに行きます。
決めたらやることをやるだけです。

20170716

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言葉について考えていると、今はっきりと感覚でたぐり寄せた何かを出す場合に向き合うべき言葉を自分が引っ込めてしまっていて、それが途方も無いくらいの量だと感じてます。メールや仕事で扱う場合もtwitterとかでもダメです。ここでは使えません。共通認識をつくっていくような場で文字が並んでいくこと、そんな場からは遠く離れて、ただただ曖昧な状態を揺れたままでキープしていたい。じゃあ言葉は使わないかというとそんなことはなくて、クリティカルなものが出なくても周縁を描くようなものになろうと、積極的に失敗するようなことがあっても使うことを止めないでいようと思ってます。
外に出ようとしているんだと思います。
立ち位置を規定するのに終始するような線の引き方はもういいので、もうちょっと言葉についても感覚を使っていきたい。
切り開くつもりです。

11月、再び、遠くで起きた悲劇への想像力に挑戦しますし、その先を見つめていくためにやってみます。
想像力を止める気はないので、このままやっていきます。続けます。

そんな感じで日々は暑いけどカレー食ったり作業しながら思考して街を歩いてます。
今年はもう一本映画つくらねば。

20170711

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七月にやる予定の短いパフォーマンス作品のための稽古が始まりました。
構成作家的なポジションとなって動くことになります。演出もやります。
創作期間は短いですが、今回はハワード・ホークス的な透明性を帯びたものを目指してみます。

野菜など栄養のあるものをという前に歯を直さなくては生活もままならないですね。今月は歯医者に通うことになりそうです。そして日々の暑さをかわすためにも麦茶を冷やして飲み込む夏です。暑いのは嫌いじゃないです。

とにかく今、見なくてはいけないものはジャコメッティです。

20170709

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今日は七月九日、晴れです。
いつも近くのコーヒー屋に行って考えたりパソコンに文字を打ち込んだりしています。
映画も演劇も今まで作ったもののほとんどの台本がここで書いたものです。すぐ店の前を人も自転車も車も電車も並走したまま通り過ぎていくことを気に入ってますしコーヒーだってとても美味しいのですが、唯一不満があるとしたら店内を流れている音楽で、どうしようもなくセンスが悪くて気分が悪くなるので耳にはイヤホンを差し込んでいます。ケーキだって美味しいです。
北千住に今度オープンするBUOYという劇場に行きました。
まだ工事前の姿が魅力的だし使うことを決めました。この夏に、それから工事が終わった11月も使います。

男は正しいことをすると言った。
そのことを一瞬で後悔した。なぜあの時、正しいことをするなんて馬鹿なことを言ったんだ、あんなこともう二度と言ったりしないし、次そんなことがあった時は誰も俺を止めることなんて出来ないと宣言してアクセルを踏みこむ、という物語の素晴らしい始まりをみた。
アルバカーキという町があって、一度だけ行ったことがある。その町のレンタカー屋で一台の赤い車を借りてアメリカ大陸を横断したのは三年前だ。たとえば、マッチさえあれば導火線に火をつけるのは簡単だけど、その火はすぐに消える様なものでしかなく、火が消えたのか消えてないのか分からないまま煙だけが漂っていて、爆発することはなくても火は消えていないみたいで燻っている、その黒くなった先端を見つめたままジリジリと着火された何かは見えないところで燃え上がっているが、そのことを知るものはもうそこにはいなかった。やがて燃え上がる。何故かなんて考えるものはいなかった。車は海岸にたどり着いた。赤い車だ。男は気分が悪くなっていたのでシートを倒して横になった。波の音が聞こえてきたからやはり海は近いのだと思う、でもここからは見えない。シートは倒れている。そのまま誰かがここに来てくれるのを待っていたけど来ないので車を置きざりにして歩きはじめた。すぐ砂だった。砂の上には板が何枚も敷いてあってその上を一匹の犬が歩いていのが見えた、その先は海で水平線だった。考える前に体は動いている。もう波打ち際で足の先には波が当たった。白く砕けて一瞬で消えた。
その一週間後、男は日本に帰った。

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最近は、タイ料理を食べる日々だった。

この前、テレビで狩猟をやってる人の姿を見たとき、「あ、似てる気がする」と思った。
前に知り合いの音楽家の方に「作ってる意識ってありますか」と問われたことがあるけど、それは特にないとしか答えれなかった。もちろんやればいいってもんじゃなくて、やることからしか始まらないから中に入っていくし、それは行為や行動から始まる。
あるイメージを持って山に入っていき、ことごとく現実に裏切られる、でもイメージすることはとても大事なので続ける、現実に向けて感覚を尖らせることが全てで、そのときやることをやった先に大小関係なく発見があって、捕まえる時は躊躇はいらない、そこに至るまでの準備は重要で全てはディティールへの関心のなかにあって、やることの中からも外からも全方位に発見がある。そして、何より生き物と向き合うこと、終わりはない。
後に何かを失ったような気持ちが残るけど、ある大事な何かを得ている。
面白かった。
もう少しこのことを考えたいけど、この感覚がまとまることはないので書くのは終わり。

でも僕はつくってる。どんな時でも人と一緒に作業をやりたいと思ってる。
そのときに目の前で起こる、誤解や勘違い、失敗と呼ばれてしまうようなものによってこそ解放されていくのを感じている、そうやって外へのまなざしを獲得していくことができる。僕にとってはそれが想像するということで、わからないことに出会うのは素晴らしいなあとおもう。

ドキュメンタリーって言葉が便利に使われているけども、それはドキュメンタリーではないことが多い。